『引き裂かれたブルーフィルム』(監督・梅沢薫、脚本・大和屋竺)について(井川耕一郎)

 『引き裂かれたブルーフィルム』を見終えたばかりの今、あなたの中に強く焼きついているイメージは何だろうか。たぶん、二つのイメージがあるはずだ。一つは、ラストのスクリーンをはさんでの銃撃戦。そして、もう一つは、女をくくりつけて闇の中を飛ぶ巨大な凧。
 以前、私は梅沢薫監督にインタビューしたことがある(「鉈の暴力、ナイフの暴力」『ジライヤ別冊・大和屋竺』(1995年・雀社))。そのときに聞いた話によると、企画会議で、梅沢監督が二つに裂けたブルーフィルムをセロテープで貼り合わせて見たら、画がずれて面白かったという体験を話したとたん、大和屋竺は身を乗り出してきたという。大和屋の想像力に火がついたのだ。梅沢は火を煽るようにこう言葉を続けたという。「ブルーフィルムに映っているやつだって人間だ。そういうやつの血がフィルムの裂け目から流れ出さないかな……」。
 だとしたら、『引き裂かれたブルーフィルム』は、まず最初にスクリーンをはさんでの銃撃戦から発想されたことになる。そして次に、大和屋竺の頭の中で風が吹き、四角いスクリーンが宙に舞い上がり、凧に変化していったのだろう。
 ところで、この解説を書くためにシナリオ(月刊シナリオ1970年11月号に「拳銃の詩」というタイトルで掲載されている)を読み直してみて気になったことがある。一体、土居(津崎公平)は大原(野上正義)を巻きこんで何をしたかったのか、ということだ。
 映画の冒頭で、土居はヤクの取引で動く二千万円を強奪する計画に大原を誘っている。しかし、二人はすぐには現金を積んだ黒木の車を襲撃せず、まずは黒木の情婦・美那(桂奈美)を拉致して一千万をゆすろうとするのだ。土居の美那に対する強い執着があるにしても、これはどう考えても、無駄な回り道ではないだろうか。
 それに冒頭の土居と大原のこんな会話も気になる。「良い役回りがあいてるぜ」「色どしまをひん剥いたりする役かね? そんなら乗ってもいいが」「よし、じゃきまった」。だが、土居の計画の中に、大原が色どしまをひん剥く場面など一度も出てこない。まるで真っ二つに裂けたフィルムをセロテープで貼り合わせたかのように、何かが微妙にずれたまま、話がどんどん進んでいく感じがこの映画にはあるのだ。
 たぶん、土居が大原を巻きこみたかった企みとは、現金強奪ではなく映画製作ではなかったか。大和屋は『荒野のダッチワイフ』『殺しの烙印』などで、拷問フィルムをくりかえし見る男たちの姿を描き、映画の魔力にとり憑かれるとはどういうことかを執拗に追求してきた。そしてついに『引き裂かれたブルーフィルム』では映画製作がテーマとなる。映画の魔力を大原にも感染させ、自分の映画に嫉妬するように仕向けること――それこそが土居の無意識が求めていたものではなかったか。だから、土居は大原に美那をひん剥く役を与えず、カメラを回させたのだろう。
 そして、土居の無意識が欲した通りに大原も映画の魔力にとり憑かれ、映画製作をはじめる。ドラマの中盤、土居は大原の映画を見るのだが、その映画は主演女優である美那の活弁つきで上映され、ひどく生々しい。そのことが土居の欲望をさらに煽っていく。嫉妬が嫉妬を呼ぶ悪循環としか言いようのない世界――そこではもはや生身の女などどうでもよい。ラストで瀕死の土居が見入ってしまうのが床に転がる美那の遺体ではなく、スクリーンに映る美那であることからも分かるように、倒錯した男たちにとって価値があるのは美那の映像だけなのだ。
 だがそれにしても、このシナリオを何度読み直しても惹きつけられるのは、大和屋が書く言葉のスリリングな連関だ。「……からだ中がだるくってそのことしか考えなくなるのよ、くらげになるのよ」「ミミズが居るのよ、背中のところに……ウヨウヨして、背中の神経を食べるのよ」というふうに、大和屋は美那の台詞の中に生物をまぎれこませる。すると、生物は増殖して、「後ろに縛られた指先がいそぎんちゃくのように、ゆっくりと開いたり閉じたりしている」というようにト書きの中にもあふれだし、やがて十和田という「胃袋にヒメマスでも泳いでそうな名前」を持つ男を登場させるに至る。そして十和田は凧あげをする土居に「タコやきのとっつあん」と呼びかけてしまうのだ。物語とは別の回路で言葉がつながっていく不思議さとでも言ったらいいだろうか。シナリオは映画の設計図として機能すればそれで充分なはずなのに、大和屋のシナリオにはそうした常識を打ち破って読む者の想像力を挑発する力があった。
 そういえば、梅沢監督にインタビューしたときのことだ。枚数の都合でインタビュー原稿からはカットしてしまったのだけれど、梅沢さんは大和屋のシナリオの魅力を伝えるこんなエピソードを語ってくれたのだった。
 ――撮影が終わって家に戻ると、夜中に美那役の桂奈美から電話がかかってきたんですよ。「監督、明日の凧あげのシーンなんだけど、あたし、真っ白な服を着てみたいの」「えッ! そんな服、用意してないよ」。そうしたら桂奈美が言うんですよ。「大丈夫。今、あたし、縫ってるところだから」。桂奈美なんて頭の鈍い女優なんです。でも、そんな娘でも大和屋さんのホンを読むと、一生懸命考えてくる。そうして、徹夜して自分の衣裳を縫ってくる。大和屋さんのホンには、このホンに応えなくっちゃ、と思わせる力がありましたね……。
 そこまで話すと、梅沢さんは喫茶店のテーブルの上に置かれた『引き裂かれたブルーフィルム』のシナリオに目を向け、ちょっとの間、当時を思い出しているようだった。


(この批評は、昨年七月のシネマアートン下北沢大和屋竺作品集」のトークショー大久保賢一・井川耕一郎)のときに配布された資料からの再録です)



参考資料:梅沢薫インタビュー『鉈の暴力、ナイフの暴力』より

 次の『引き裂かれたブルーフィルム』は、国映からアクションものをと言われて撮った作品です。最初の打ち合わせのとき、国映の専務だった矢元一行(朝倉大介)が、何か変わったことをしよう、としきりに言うんですよ。でも、具体的に何をどうすればいいのか分からない。そのとき、雑談で、8mmのブルーフィルムを見ていたら、フィルムが縦に真ッ二つに裂けた話をしたんです。裂けたフィルムをセロテープで貼り合わせたら、画がずれているのが面白かった……。すると、大和屋さんが、何?!と身を乗り出してきたんです。それでぼくは言った。ブルーフィルムにうつっているやつだって人間だ。ぎりぎりのところで生きているんだろう。そういうやつの血がフィルムから流れ出さないかな……。
 大和屋さんはぼくの話したことをもとにホンを書いてきました。一読してぼくがのったのは、津崎公平と野上正義が凧あげをするシーンです。殺し屋が何を子どもじみたことに夢中になっているんだ、ってところが好きでした。このシーンはアパッチ砦(注:今の多摩ニュータウンのあたり。当時は造成中であった)で一日かけて撮ったんです。スタッフが呆れてましたけれどね。それから、巨大な凧に女をくくりつけるというのも、いかにも大和屋さんらしい発想だと思います。これは夜中にビルの屋上で撮りました。巨大な凧をつくって、バックのビルに大きな暗幕をかけて撮ったんです。大和屋さんのホンには、現場のスタッフや役者に、このホンに応えなくっちゃあ、と思わせる力がありましたね。
 撮影で一番苦労したのは、ラストのスクリーンを挟んでの銃撃戦です。ホンには、


 <スクリーンに、突然大原の顔と体が写し出される>
 土居、反射的にぶっ放す。
 穴のあいたスクリーン。
 <そこに縛り上げられた大原を、あっけなく射殺する十和田と美那が写し出される>
 スクリーンに開いた穴から、血がジワリと吹き出している。


とある。ぼくはここで実像と虚像のズレを示したかった。それがこの映画のテーマですからね。それで、あらかじめ撮っておいた16mmフィルムでは、野上正義が撃ち殺された直後、素早くズームバックしたんです。そして、そのフィルムをスクリーンにうつして、最初、重なっていた実像と虚像の血が、次の瞬間、ずれるというふうにしてみた。このあたりの銃撃戦は、映写のタイミングがなかなかうまくいかなくて何度も撮りなおしましたね。
 試写のとき、大和屋さんはラストの銃撃戦に文句を言ってきました。スクリーンの裏にいた美那が撃たれて倒れるカットが説明的だと言うんです。「梅沢、倒れた女の顔なんか見せなくたって、美那だってことは分かるよ。あんな説明カット撮るなんて、お前は三流監督だな」「うるさい。三流と言いたきゃ、勝手に言ってろ。俺は美那の実像と虚像のズレを見せたかったんだ」……。ぼくは今でも倒れるカットは説明カットじゃないと思ってます。大和屋さんには大和屋さん独特のこだわりがあるんですよ。そう言えば、一日かけて撮った津崎公平と野上正義の凧あげのシーンを見て、「バカだなあ。あんなにたくさん撮って。あんなもん、二、三カットでいいんだ」と笑ってました。でも、そういう大和屋さんは凧あげのシーンを細かく書いてきているんです。どう考えたって、二、三カットで撮りきれるシーンじゃないんですよ。


(このインタビューは『ジライヤ別冊・大和屋竺』(1995年、雀社、編集:福間恵子、発行:福間健二)に掲載されたものです)