渡辺あい『電撃』と冨永圭祐『乱心』についての往復書簡・第2回(清水かえで+井川耕一郎)


<清水かえで→井川耕一郎:『乱心』のシナリオを読んで>


『乱心』のシナリオ、送っていただき、ありがとうございます。
面白かったです。
どんな役者さんがどんなふうに演じているんだろう、どんなところで撮影しているんだろうって、
冨永さんの映画が見たくなりました。


先生のメールを読んだときには、
清音と十郎のお父さんは、盛太や十郎のお母さんに比べると、
ちょっと鈍感なひとなのかなぁと思ってました。
でも、シナリオを読んでみたら、ちがいました。
十郎のお母さんがひよりと耶子をかさねあわせて、いやな予感がするのよと言うと、
お父さんはこう言います。
「嫉妬してるんじゃないか。息子とられたような気持ちになって」
こんなふうに言われたら、「馬鹿言わないで」と言いかえすに決まってます。
でも、内心、気にしつづけると思うのです。
だから、お父さんはお母さんの気持ちをあおって、何かが起きるように仕向けている感じがしました。
感じだけですけど。


何かが起きるように仕向けている感じは、清音の方がもっとします。
清音は盛太の「あれ、耶子ちゃんか」を聞いて、
「盛太・耶子・十郎」という三角関係が昔あったと想像したのでしょう。
それから、「盛太・耶子・十郎」が、「盛太・ひより・十郎」に変わってしまうかもしれないと、不安になったのだと思います。
林の中で、清音は子どものころのことを話して、
「あたし、十郎君が好きだったのよ」と言いますが、
これって、「私は十郎をあきらめたのだから、あなたも盛太に近づかないで」と言うことですよね?
次の日、清音は盛太の前から姿を消しますが、
盛太の気持ちを自分に向けたくてやったことだと思います。
(でも、盛太は清音を探しているとちゅうで、ひよりと出会ってしまうのですが)


清音のやっていることは、おかしいですよね。
だって、「盛太・耶子・十郎」という三角関係が、「盛太・ひより・十郎」にかならず変わっていくとはかぎらないのですから。
結局、清音は頭の中でつくったお話を現実にしようと動いているみたいに見えます。


『乱心』には、二つのタイプのひとがいると思いました。
お母さんの霞や盛太みたいに、人物配置に敏感に反応してしまうひと。
お父さんの十信や清音みたいに、お話をつくってしまうひと。
でも、この二つはばらばらじゃありません。
人物配置に反応してしまうひとが横にいないと、
お話をつくってしまうひとは、お話がつくる手がかりがなくて、困ってしまうのでは?


それで思ったのですけど、
『電撃』の登場人物って、みんな、目の前の人や物の配置に敏感で、そのうえ、即興的にお話もつくれるタイプのひとたちなんじゃないでしょうか?
ミチコは○○○としてタカヒロの家にやってきたのですが、
自分とタカヒロ、それに一軒家という配置に反応して、
じゃあ、わたしはタカヒロの奥さんを演じようと思った。
キョウコはどういう理由でやってきたのか、はっきり分かりませんが、
自分、タカヒロ、ミチコの配置に反応して、
ミチコのライバルを演じて、タカヒロをとりあってみようと思った。
そうして、タカヒロはミチコが自分の妻を演じれば、夫を演じ、
キョウコが恋人を演じれば、それにあわせて恋人を演じようと思った。
のではないでしょうか?


でも、何でみんな、演技をしたいのでしょう?
そうしたくなる病気があるとか?


あっ、それから。
シーン13で、十郎と盛太がキャッチボールをしながら話してますね。
盛太が「お前が守れば、耶子ちゃんは死なずにすんだんじゃないか」と言って、
すぐ近くから十郎めがけて思いきりボールを投げようとするけれども、
「盛太、そのまま彼方にボールを投げる」とあります。
このとき、投げたボールは次のシーン14のおわりになって、林の中にいるひよりにあたりそうになるんですけど、
これって、映画を見ていて、どんな感じだったのですか?
えっ、今頃、落ちてくるの? 遅ーい。だったんですか?


清水かえで


<井川耕一郎→清水かえで:『電撃』の病気、『乱心』の病気・その1>


(このメールは、『電撃』と『乱心』について論じたかなり長いものになっている。そこで、二つに分けることにした)


清水さんのメールを読んで、なるほど、そうか、そうだったのか、と『電撃』と『乱心』について見えてくるものがありました。
大工原さんとの約束でブログに感想を書くことになっているので、助かりました。ありがとう。


まず『電撃』について。
試写で見たときから気になっていたのは、タカヒロとキョウコはどういう関係なのだろうということでした。
映画のはじめの方で、タカヒロはミチコに、キョウコのことを腹違いの妹だと説明してますね。それから、キョウコの母(タカヒロの継母)については、くそ女だと吐き捨てるように言っている。
また、キョウコが妊娠していることを告げるシーンで、タカヒロは「血は争えないんだな……。産むなんて言い出すなよな」と言っている。
以上のタカヒロの言葉から推測できる彼の家族関係は次のようなものでしょう。
タカヒロの母が病気で亡くなってすぐに、タカヒロの父は再婚した。再婚相手の女はすでに妊娠していた。当然、タカヒロは継母を嫌悪し、彼女のおなかの中にいる子も嫌悪する。ところが、生まれてきた妹・キョウコを間近で見ているうち、タカヒロの中で変化が起きた。継母はともかく、生まれてきた子を嫌うことはないじゃないか。キョウコには何の罪もない……。


もし上に書いたような家族関係なのだとしたら、タカヒロの言動には欠けているものが一つあるような気がしてならないのです。それは父に対する憎悪です。
ミチコの前で、キョウコの母をくそ女と言うくらいなら、自分の父に対する憎悪がもっと表に出ていいはずです。たぶん、タカヒロの父は死亡しているのでしょうが、それでも罵らずにはいられないような憎悪がタカヒロの中にはあるべきでしょう。
キョウコの妊娠を知ったときもそうです。タカヒロは「血は争えないんだな……」なんてことは言わずに、誰の子だ?と問い質すのではないでしょうか? そうして、口ごもるキョウコを見ているうち、タカヒロの中で、キョウコを妊娠させた男と自分の父が重ね合わされ、自分の父みたいな未知の男に対する憎しみがどうしようもなくふくらんでいくのでは?


どうしてタカヒロの言動から父に対する憎悪がぬけ落ちているのだろう? タカヒロがキョウコの母に対する嫌悪ばかり表明しているのを見ると、キョウコとは腹違いではなくて、種違いのような気がするのだが。タカヒロとキョウコ、二人を産んだ母を、ひとから淫乱とかあばずれとか言われるくらい自由奔放な恋多き女というふうに設定した方がすっきりするんだがなあ。
――と、まあ、試写を見た後、しばらくはそんなことを考えていたのです。渡辺さんと冨永くんは基本設定を間違えているんじゃないかと思っていたのですね。
しかし、清水さんの、
>『電撃』の登場人物って、みんな、目の前の人や物の配置に敏感で、そのうえ、即興的にお話もつくれるタイプのひとたちなんじゃないでしょうか?
という指摘を読んで考えが変わりました。
そうか、タカヒロはミチコの「兄妹ってあんなにべたべたするものなの?」という言葉に反応して、即興的にフィクションをつくったのだ。だから、現実には種違いの兄妹であるのに、それを逆転させて腹違いの兄妹にしたのだ、と。まあ、父への憎悪を忘れてしまったのは、小説家にしては詰めが甘かったわけですが。ひょっとして、小説家としては衰弱していたというかスランプだったのかな。


清水さんは、
>でも、何でみんな、演技をしたいのでしょう?
>そうしたくなる病気があるとか?
と書いてますね。
とても面白い考え方だと思います。清水さんのこの仮説をふまえて、『電撃』を整理しなおすと、次のようになるでしょうか。
タカヒロは小説家だったが、スランプで小説が書けなくなっていた。ある日、彼はウイルスに感染した。症状は、即興的に話をつくり、演技をしたくなるというもの。タカヒロは小説家を演じる小説家となる。
タカヒロは、一人暮らしの家で小説家を演じていることに物足りなさを感じるようになる。おれには観客が必要だ。そこにやって来たのがミチコだった。
・ミチコもまた、ウイルスに感染。タカヒロの妻を演じるようになり、さらに妊娠しているという設定もつけくわえる。
・ミチコは、タカヒロと二人きりで演技をしていることに物足りなさを感じるようになる。誰かもう一人、登場人物がほしい……。ミチコはタカヒロが浮気をしているという設定を考える。そこにタイミングよくやって来たのが、キョウコだった。
・キョウコもウイルスに感染。ミチコのライバルを演じることを選択する。ミチコからタカヒロを奪うにはどうしたらいいか。ヒントはタカヒロの言動にあった。ミチコが妻のふりをしているだけの女という設定が「あり」なら、ミチコが妊婦のふりをしているという設定も「あり」じゃないの? わたしはミチコの嘘の妊娠をあばいて、彼女を追い出すことにしよう。


『電撃』で、もっとも感心したのは、キョウコがミチコの妊娠の嘘をあばくシーンでした。
リビングで、キョウコはリンゴを食べながら、キッチンにいるミチコをじいっと見ている。それから、キョウコは新聞を読んでいるタカヒロのところに行って、「ターちゃん、私、面白い秘密知ってるんだ」と言って立ち上がる。
このあとなんですね、ぼくが感心したのは。
(続けて妊娠の嘘をあばく芝居について書いているのだが、これから映画を見るひとのためにカットすることにした。ただ、嘘を一瞬であばくあざやかさには、見ていて思わずうなってしまった、ということだけは記しておきたい)
それから、キョウコがミチコの嘘をあばいたことは、キョウコが妊娠しているという設定をうみだす原因となっていますね。清水さんは前に、キョウコが本当に妊娠しているのかどうか疑問だと書いてましたが、最初のうちは、妊娠している設定ではなかったと思いますよ。
キョウコが妊娠しているという設定をつけくわえたのは、タカヒロの家を追い出されたあとのミチコです。キョウコに嘘が見抜けたのは、彼女が妊娠していたからだというふうにしたらどうだろう、とミチコは考えたのでしょうね。
かなり意地悪です、ミチコは。キョウコが妊娠しているとなると、おなかの中の子の父親のことが問題になってくる。それまでタカヒロだけを愛しているという設定でキョウコは演じてきたのだから、これは困った事態――清水さんふうに言えば、キョウコはぽろぽろ、くらくらしたでしょうね。


『電撃』についてはよく考えてみると、設定がずいぶんとあいまいだったり、つじつまがあっているんだかないんだか疑問に思うところがあったりします。そりゃあそうでしょう。ミチコ、タカヒロ、キョウコの三人が相手の芝居を見て即興的に話をつくって演じているのですから。
注目すべきは、にもかかわらず『電撃』が表現として成り立っているのはなぜか?ということです。これに対する答は次のようになるでしょうか――三人の登場人物は、ここで演じたら面白い関係はどんなものなのか(たとえば、相補的関係なのか、対立的関係なのか)ということについては、瞬時に的確な判断を行っている。だから、つじつまがあっているのかどうか疑問に思うことが出てくるにもかかわらず、表現として立派に成立しているのだ、と。
大工原さんがプレスシートで『電撃』のことを論じていて、「つまり、運動神経がいいのだ」と書いていますが、登場人物のこうしたあり方を見ていると、たしかにそうだなあ、と思います。
(続く)

渡辺あい『電撃』と冨永圭祐『乱心』についての往復書簡・第1回(清水かえで+井川耕一郎)


(この往復書簡は、2011年にプロジェクトDENGEKIブログのために書いたものです)


<はじめに>


試写で渡辺あいさんの『電撃』を見たら面白かった。それで、大工原正樹さんに、『電撃』の感想をブログに書きますよ、と言ったのだが、あとになって、しまった!と思ったのだ。冨永圭祐くんの『乱心』とセットにして論じると面白いんじゃないかなあ、なんて余計なことをついでに口走ってしまったからである(冨永くんは『電撃』では共同脚本)。
さて、どうしたものか……!と腕組みしていると、左下の奥歯が痛みだし、その範囲がじわじわ広がり、ついには脳天にまで達した。ものが書けないなんてものじゃない。普通の生活もできなくなりそうだったのである。もうダメだ!と近所の歯医者に駆けこみ、危機はなんとか去った。しかし、歯痛&頭痛と一緒に、それまで考えていたことが全部、頭の中から消え去っていた。
やれやれ、困ったぞ、と思いながらパソコンを見た。立教大学の映像身体学科で私の授業をとっている清水かえでさん(彼女はこのブログに『純情�・1』の批評を書いている)とのメールのやりとりが残っていた。読んでみて思った。なーんだ、これをそのまま、大工原さんに渡せばいいじゃないか。
 というわけで、清水さんに事情を説明し、メールを公開することにしたわけである。これで、大工原さんとの約束ははたした(清水さんの方が私よりたくさん大切な着想を書いていて、私はそれを応用しているだけなのだが)。清水さん、本当にありがとう。助かりました。みのる酒店(志木にある素晴らしい立ち飲み屋である!)で、なにか飲み物と高菜奴をおごります。(井川)


<清水かえで→井川耕一郎:『電撃』、面白かったです>


渡辺あいさんの『電撃』、面白かったです。
変な映画でしたけど。


最初に、美輪玲華さん演じるミチコがナレーションで、
「わたしが妊娠してから、タカヒロはやさしくなりました。でも、彼の浮気はとまりませんでした」
と言いますね。
それから次の次のシーンで、ミチコが買い物から帰ってくると、
リビングに波多野桃子さんがいて、安藤匡史さん演じるタカヒロが説明します。
「妹のキョウコだよ」と。


初めて妹のことを紹介するみたいな口ぶりで、なんかおかしいなぁと思ったのですが、
でも、キョウコは妹ではなくて、ほんとうは愛人なんだろうと、このときは思ったのです。
ちがいました。
タカヒロがうそをついて、キョウコを妹にする必要はなかったのです。
だって、ミチコはタカヒロの妻でも、同棲相手でもなく、
ただの○○○(ネタバレになるので、ふせておくことにしました(清水))だったのですから。
それに、あとになって、ミチコの妊娠もうそだと分かります。


最初にこれがお話の基本設定だと思っていたものが、ぽろぽろくずれていって、
わたしは今、何を見てるんだろと、くらくらしてきました。


でも、最初に書いた「変な映画」というのは、この「ぽろぽろ、くらくら」のことだけじゃないのです。
「わたしはタカヒロの妻で、妊娠している」という妄想がミチコがとりついていて、
そんなミチコにタカヒロやキョウコがふりまわされるお話だったら、分かりやすいと思うのですが、
『電撃』はそうではないように見えました。


ミチコはタカヒロに言います。
「兄妹って、あんなにべたべたするものなの?」
風呂あがりのタカヒロにくっつくキョウコを見ていると、ほんとうに妹という感じがしません。
ミチコがやめてからのシーンですが、
キョウコはタカヒロと同じベッドで仲よくならんで寝ています。
あれ? わたしは今、何を見てるんだろ?
キョウコは妹なの? 恋人なの?と、分からなくなってしまうシーンでした、これ。
キョウコは妹なのだから、そんなことがあってはならないんだけど、
タカヒロを愛しているのかなと思ったりしたのですが、
もしそうなら、キョウコが別の男のひととつきあっていて、じつは子どもがおなかの中にいるという設定は、どう受けとめたらいいのでしょう?
(今さっき書いたことと矛盾しますが、
キョウコはほんとうに妊娠しているのかな?とも思いました。
ミチコがキョウコにエコー写真を見せて、妊娠しているでしょ?と言うシーン。
あのとき、ミチコが手にしていた写真には折り目がついてました。
今、キョウコのおなかに赤ちゃんがいるなら、写真をあんなふうに折りたたんだりするかなぁと、思ったのです。
ひょっとして、流産してしまって、そのショックで、タカヒロの家に行ったのでは?)


それから、タカヒロですね。
でだしのシーンで、タカヒロはミチコの夫ぽくふるまっています。
なのに、あとになって、ミチコはただの○○○だよだとか、
ミチコの妊娠はうそだと分かっていたなんて言っている。
キョウコに対する態度も変です。
キョウコが恋人ぽくふるまって、いちゃいちゃしようとするのを、タカヒロはこばみません。
でも、キョウコがなぜ家出して、うちに来たのかをきちんと知ろうともしないのです。
そんなことぜんぜん興味がないといった感じで、心のそこから冷たいひとなのでは?と思いました。
このひとの本心はどうなっているのでしょう?
それに、タカヒロはほんとうに小説家なのでしょうか?
パソコンに向かってなにか書いているみたいですが、書いているふりをしているだけに見えます。


『電撃』では、ミチコだけじゃなくて、キョウコも、タカヒロも、ぽろぽろ、くらくらです。
三人が三人とも、自分ではない誰かを演じようとしているみたいです。
そこがとても面白かったんですけど、でも、どうしてこうなったのでしょう?
そういえば、大工原正樹監督の『純情�・1』も、演じたい!という欲求につき動かされる映画でした。
渡辺あいさんは大工原さんの教え子だそうですから、やっぱり、影響を受けたのでしょうか?


清水かえで


<井川耕一郎→清水かえで:『電撃』を見て、『乱心』を思い出す>


清水さん、メールありがとう。
たしかに清水さんが書いているように、『電撃』は変な映画ですね。冒頭で示される「妻−夫−愛人」の三角関係が途中で消失して、思ってもみなかった方向にドラマが進んでいく。
それで、ぼくが思い出したのは冨永圭祐くんが撮った『乱心』という映画でした。冨永くんは『電撃』のシナリオを渡辺あいさんと一緒に書いているひとです。


『乱心』の冒頭で、十郎はひよりの部屋を訪ねます。「放っておいてほしいのに」「私、呪われてる」と言うひよりに、十郎は「だとしたら、オレも呪われている」と言い返す。そしてさらに、妹の墓参りに一緒に行かないか、とも言う。
ここまで見て分かることは、どうやらひよりと十郎の間には忌まわしい過去があるようだということです。となると、この後、展開するドラマはどのようなものになるか? 忌まわしい過去を乗り超えようとして、逆にひよりと十郎、二人の身の上に恐ろしいことが起きるというドラマが予想されます。
ところが、その後のドラマは予想したようには進まないのです。
(清水さんは『乱心』を見ていないだろうし、別にネタバレしても問題ないと思うから先に書いてしまいますが、十年前にひよりの父は十郎の妹・耶子を殺しています)


ひよりを連れて故郷に戻った十郎は、まず幼なじみの盛太と清音に会うのですが、そのときに盛太はひよりを見て、「あれ、耶子ちゃんか」と言う。
それから、実家に戻り、両親と会うわけですが、ここでも母の霞がひよりの姿を見て凍りつく。晩飯のときに、耶子の茶碗と箸をひよりの前に出したところから見て、どうやらお母さんもひよりが殺された娘に似ていると思っているらしい。
盛太も霞もひよりに耶子を重ね合わせているのだけれども、ここで気になることが出てくるのです。本当にひよりと耶子は似ているのか?
盛太と一緒にひよりを見た清音はそうは思っていない。後になって、盛太に、何で「あれ、耶子ちゃんか」なんて言ったの?と尋ねている。
十郎の父・十信も似ているとは思わなかったようです。
じゃあ、なぜ盛太と霞は、ひよりが耶子に似ていると思ったのか?


その答は、途中で出てくる十年前の事件についての回想シーンで分かります。
一晩、留守にしていた両親が家に戻ってくる。霞は耶子の部屋のドアを開けて思わず叫ぶ。そこには、耶子の血まみれの死体があって、横には妹の手を握って眠っている十郎がいた……。
おそらく、霞はこのときの人物配置にとり憑かれてしまったのです。だから、十郎の横にいるというだけで、ひよりと耶子を重ね合わせてしまったのでしょう。
では、盛太は? 彼が十郎とキャッチボールするシーンがあるのですが、そこで盛太は「お前が守れば、耶子ちゃんは死なずにすんだんじゃないか」と言います。きっと、盛太は誰かから十郎が耶子の死体の横で寝ていたことを聞いていて、そのことにこだわっていたにちがいありません。
(ちなみに、十年前の耶子とひよりが似ているかと言うと、映画を見た印象ではまるで似ていませんでした。これはあきらかに、容姿ではなく、人物配置に注目せよ、と言っているようなものです)


ほら、ドラマが思ってもいなかった方向に進んでいるでしょう?
登場人物たちが問題にしだすのは、ひよりの父が耶子を殺したことではないのです。殺害された耶子の横で十郎が寝ていたことが問題になっているのです。
とりわけ、この人物配置にこだわるのは、もうじき結婚することになっている盛太と清音です。
盛太は十年前のことをこう考える。おれは耶子ちゃんが好きだったのに、十郎は耶子ちゃんを助けなかった……。
清音は子ども時代をふりかえってこう考える。わたしは十郎が好きだった。でも、十郎は耶子ちゃんを愛していて、耶子ちゃんもそのことが分かっていたみたいだった……。
こうして、盛太と清音の考えがいりまじり、「十郎−耶子−盛太」と「耶子−十郎−清音」の複合体である四角関係が生み出される。そして、この四角関係が、十郎−ひより−盛太−清音の関係に影響を及ぼし、惨劇が起きる。もう少し具体的に言うと、ひよりが盛太に犯され、清音がそれに激怒するというわけです。
盛太の子を宿している清音は十郎の実家に乗りこんでくると、みんなの前で自分の腹を包丁で何度も刺します。恐ろしいことはひよりと十郎の身の上にではなく、二人のすぐ横で起きてしまうのです。


このとき、ひよりは大笑いするのですが、一体、この笑いの意味は何なのだろう?
とても気になっているのですが、それに対する答がまだ見出せないでいます。
ああ、すみません。話が『電撃』からそれてしまいましたね。
(以下、『電撃』の感想が記されるが、清水さんの感想と重複するところが多いので、省略する)


井川耕一郎


追記

『乱心』のキャスト表を記しておきたい。

十郎:福島慎之介
ひより:新井美穂
耶子:江連えみり
清音:柳有美
盛太:平吹正名
霞:大沼百合子
十信:針原滋
浩嗣(ひよりの父):万田邦敏

西尾孔志『ソウル・フラワー・トレイン』について(井川耕一郎)


以下の文章は、8月22日にツイッターに書いたものです。


(井川)西尾孔志『ソウル・フラワー・トレイン』を試写で見ながら思ったことは、大阪はよそ者にも親しげに話しかけてくる町なのだなということ。そして、隙あらば、ひとの持ち物をくすねようとする町なのだということ。(誤解がないように言っておきますが、映画の中の大阪の話です)


(井川)大阪がまるで異なる二つの顔を持っているという設定は一見面白そうです。しかし、ドラマを進めるときの妨げにもなりはしないか。大阪では、ひととひとの間の距離は急速に縮まるけれども、あるところまで来るとストップしてしまう……なんてことを映画を見ながら思ったのですが。


(井川)大阪で暮らす娘に会いにいこうとする父(平田満)と、どうやら父に会うため、ひさしぶりに大阪に戻ってきたらしい娘(真凛)。こう書くと、二人の間に何か起こりそうな気がするのですが、真凛の案内で平田満が大阪見物をする前半部分では特にこれといったことは起こりません。


(井川)この「何かが起こりそうで、なかなか起こらない」大阪の感じをどう受け止めたらいいのか。もどかしいけれども、どこか心地よいと受け取るか……、それとも、何か起きろよ!といらだつか……。正直に言うと、自分はちょっとだけイライラし、この後の展開を心配したわけですが。


(井川)ところが、真凛と別れた平田満が娘(咲世子)の部屋に泊まるあたりから、映画の顔つきが変わってくるのです。娘に対してある疑いを持った平田満は、眠ろうとしても眠れず、夜の大阪を一人ふらふらさまよう。すると、通天閣が異様な輝きを見せ、無人路面電車が走ってくる……。


(井川)このとき、平田満は夢を見ているわけです。夢の中で、彼は大阪に来てから見聞きした断片的な事柄をつなぎあわせて、必死になって娘に対する疑いになんとか答を出そうとしている。


(井川)平田満のこの無意識のあり方がぼくには面白かった。娘との距離を強引に縮めようとしている。それは、映画を見ている自分が大阪に対して感じているもどかしさとどこかで響き合うところがあったわけです。


(井川)夢から目ざめたあとの平田満は、無意識が欲するものに衝き動かされているかのように行動する。まずは真凛との距離を強引に縮め、次に娘・咲世子との距離を縮めようとするわけです。その姿は滑稽だけれども、同時に感動的でもある。おお……!と声が出てしまったというか。


(井川)特にストリップ劇場で平田満が、はいッ!はいッ!と挙手するところが素晴らしい。それにしても、平田満の暴走にたまたまその場にいあわせた人々がのってしまうという展開は東京では考えられないでしょう。大阪でなければ成立しない奇跡ではないか、と思ったのですが。



西尾孔志『ソウル・フラワー・トレイン』は、現在、新宿のケイズシネマで公開中です(連日20:30〜)。
公式サイト:http://www.soulflowertrain.com/

渡辺護『少女を縛る!』について1・2(井川耕一郎)



『少女を縛る!』(78)というタイトルを聞いて思い出すのは、『谷ナオミ 縛る!』(77)だ。
当然、これから映画を見ようとする者の関心は、少女を演じる女優に向けられるだろう。
しかし、映画が始まってすぐに映る少女役を見て、たいていのひとは、ええッ、この子が主役?ととまどうのではないだろうか。
京富(シナリオには「置屋兼廓・京富」と書かれている)に売られてきた少女・きくを演じるのは、宮崎あすか――どう見ても地味で、主演女優に必要な何かが足りないような気がする。
谷ナオミにはその何かがあったのだが……。好き嫌いは別にして)
しかも、彼女が演じる役がどうにもぱっとしないのである。
冒頭、宮崎あすか演じる仕込みっ子のきくは、京富の階段で雑巾がけをしているのだが、一生懸命やっているわりにはところどころ拭き残しがあるのが気になる。
きっと、きくは京富の女将に何度も注意されているにちがいない。けれども、愚鈍だから、その注意がなかなか生かせないのだ。
(きくは女将に叱られたということしか覚えていないだろう。だから、いつも首をすくめておどおどしている)
さらに言うと、三分たっても、五分たっても、いや、十分たっても、きくはセリフらしいセリフを口にしない。女将たちの命じることに「はい」と答えるくらいだ。
こんな子が主人公で、この映画は大丈夫なのだろうか……と、出だしを見て心配になった観客が公開当時いたのではないだろうか。
中にはこんなふうに思うひとがいたかもしれない――たぶん、この映画は誰かひとりを主人公にするわけではなくて、『(裸)女郎生贄』(77)のように廓を舞台にした群像劇になるのだろうと。
ところが、映画はきくを迷うことなく主人公に選び、愚鈍な少女が思ってもみなかった道すじをたどって変わっていくのを描くのである。


映画が始まって十分を過ぎたころ、きくは女将(有沢眞佐美)の言いつけで、おゆう(しば早苗)が泊まっている茶屋「志村」に襦袢を届けに行く。
襖を開けたとたん、きくはあッ!となる。おゆうが客の杉田(三重街竜)に縛られているのだ。
「お客さん、乱暴しないで」と言ってすがりつくきくを突き飛ばして、杉田は言う。「おゆうはな、こうされるのが好きなんだ」「ちょうどいい。おゆうが悦ぶところを見ていくがいい」
きくは尻もちをついた姿勢のまま、おゆうと杉田から目をそむける……のだが、しばらくすると前を向く。
縄が食いこむ裸のおゆうのカットと、きくの目のアップが何度もくりかえし映る。
このときのきくの目のアップがただごとではない(撮影は鈴木史郎)。呪われたように釘づけになっていることがはっきり伝わってくるカットなのだ。
すると、突然、シーンが変わり、布団の上で腰紐を使って自分の体を縛っているきくが映る。
『少女を縛る!』というタイトルが予告していたシーンがこんなふうにやって来るとは……!と驚いたひともいたのではないだろうか。
こうして、私たちはきくがマゾヒズムの快楽にとり憑かれていく過程を息を殺して見つめていくことになるのである。
(ついでに記しておくと、『少女を縛る!』はそれ以前のどんな作品とつながりがあるだろうか。
渡辺護は『処女残酷』(67)、『女郎刑罰史』(68)、『情事のあとさき』(70/ただし、向井寛の名で監督している)、『(裸)女郎生贄』(77)というように遊廓を舞台にした映画を何本か撮ってきている。
また、それらの映画では、女郎が折檻されるシーンが売りとなっていたようだ。
だが、マゾヒストの女性を真正面から描いている点で、『少女を縛る!』は、他の遊廓ものとは異なっている。
内容から見て、『少女を縛る!』にもっとも近い作品は『猟奇責め化粧』(77)ではないだろうか。残っているシナリオによると、この作品は芹明香演じる主人公がマゾヒズムの快楽を追求し、ついには死に至るというものだったようである)



愚鈍であまりしゃべらない少女を主人公にしたドラマをつくるのは、かなりの冒険だろう。
『少女を縛る!』のシナリオを読むと、高橋伴明が苦労して書いたことがよく分かる。
たとえば、客の杉田に責められているおゆうをきくが見つめてしまうところ(シーン15)は次のようになっている。


  見るなと言われても、きくはどうしても目の前の光景に吸い寄せられてしまう。
おゆう「ああ、やめて! イヤ! もっと!」
  いじめられて、うれしさにすすり泣くおゆうが信じられないが、やがておゆうの極みに、きくは美しいものを見ている。


「おゆうが信じられないが」、「きくは美しいものを見ている」といった記述は、一般的なト書きの書き方からはずれている(高橋伴明は他のシナリオではこのような書き方はしていない)。
高橋伴明はきくの内面にまで踏みこんでト書きを書かないと、ねらいが現場に伝わらないと考えたのだろう。
きくの内面を探るような書き方は、続くシーン16にも見ることができる。


  異様な昂奮に眠れないきく。
  おゆうの喘ぎが、脳裏に響きわたる。
  苦しいほどの胸のときめき。
  下半身のわけのわからぬうずき。
  いつのまにかきくの指が花芯にのびている。
  何を思いついたのか、きく、腰紐で自分の足首を縛ってみる。
  そして再び指を使う。先刻よりさらになにか感じるものがある。


きくが自室の布団の上で自分を縛って快感を感じる芝居はこのあとも続くのだが、興味深いのは、高橋伴明がたっぷり二ページ使って書いた芝居が、映画では五秒の短いカットに圧縮されていることだ。


おそらく、シナリオを読んだ渡辺護は自分にこう問いかけたのだろう。
高橋伴明がきくの内面について書いたことにもちろん間違いはない。けれども、内面を説明するような芝居を役者につけて、それを丁寧にカット割りして撮っても、はたして面白い映画になるものだろうか……。
そうして、さんざん考えたすえに(渡辺護は悪あがきと言ってもいいくらい悩みに悩む監督だ)、ある方針にたどりついたにちがいない――高橋伴明がシナリオに書いたことを観客が推測するように誘導する表現を目指すこと。
もう少し具体的に言うと、渡辺護がシーン15〜16で目指した表現の要点は次の三つになるだろうか。
一つ目は、結果的に起きる出来事を圧縮して撮ること。
きくが腰紐で自分を縛って自慰をするシーン16を五秒のカットに圧縮するのがこれにあたるだろう。この極端な圧縮は二つ目、三つ目の要点と連動して意味をもつ。
二つ目は、カットとカットの間に飛躍があるようなつなぎ方をすること。
高橋伴明がA→B→C→Dというふうにきくに起きた出来事を丁寧に追って書いているとしたら、渡辺護は途中を端折ってA→Dという表現を選ぶ。そうすることで、観客にB、Cを想像するようにうながすのである。
渡辺護は、『ニッポンセックス縦断 東日本篇』(71)のときにカットとカットの間に飛躍があるつなぎ方の面白さに発見した、と語っている)
三つ目は、きくの内面を徹底的に排除したカットを撮ること。
シーン15で縛られたおゆうに見入ってしまうきくの目を横から撮ったカットは、見る者に強烈な印象を残すのだが、この目のアップはかなり寄りすぎの感じがする。
照明のせいなのか茶色に見えてしまう黒目や、まばたきするまぶたの動きなど、人体の一部としての目ばかりが気になるカットになっているのだ。
「目は口ほどにものを言う」というが、シーン15の目のアップにはこの言葉があてはまらない。きくの内面を排除したカットになってしまっているのである。
しかし、そのことが逆説的に内面にこだわるきっかけとなっていると言ったらいいだろうか。
つまり、きくの目のアップから内面が読み取れないことが、「一体、彼女の中で何が起こっているのだろう?」という問いを生みだし、その問いが私たちにとり憑くのである。

『制服の娼婦』撮影日記(渡辺護)


(このエッセイは『映画芸術』1974年6〜7月号に載ったものです)


こんどは女高生売春でいこうとホンヤさんにいったのが確か四月のアタマ。15日頃までにというのに一向に書いている気配もなく、相変らずゴールデン街で飲んだくれているらしい。とにかく30日にはホンが欲しい。もうアイツはツカワナイ、ホントに今の若い奴はなどと助監督に八ツ当りしていると2日の夜青い顔してデキマシタと届けにくる。実に不健康な生活を送っている。目を通す時間も惜しんで、即、印刷屋へ送り込む。タイトルは「制服の娼婦」印刷が上がったのが4日夜遅く。悩まされる撮影になりそうなホンである。とにかく8日インする。あまりまわらない。ホンを片手にホンヤの名前を叫んでみる。「アライーッ! アライーッ!」実に不器用でヘタクソなホンを書く。自分の不健康さを棚に上げ、いつも偉そうな事をホザいて飲んでいる。さて問題の主人公がロッカーに子供を捨て乳がはって、恋人にオッパイを吸わせるシーン。子供を産んだ後だから乳首が黒ズンでなくてはいけないというので助監督ドーランで色付けをする。テスト、助監督さんが牛乳を俳優さんに含ませる。そして、その黒ズンだ乳首に口をあてて吸う。乳が流れて行く。なかなか、神秘的で良い感じだ。(本番行けばよかったなあ……)。「今の感じで、本番!」、ジーッとマワリ出す。テストの時と違ってややオーバー気味でグロテスクだ。「NG!」アレ? 白いハズの乳が段々コーヒー色になって流れている。ドーランのせいだ。これではミルクコーヒーだ(フィルムが高くなったのに……。やれやれ。)次、妊娠している腹を、ザブトンをあてたり、タオルをあて、その上をサラシでまいて作っている。助監督の仕事だ。それをカメラ助手や照明助手がヤジ馬的存在で手伝っている。「カントクッ、何ヵ月位のオナカにしますか?」オレ「知るもんか、七ヵ月位にしようか」かなりいい加減。「大きければいいのさ、ハラがデカいということを誇張すればいいんだから」性教育映画を撮ってるわけじゃあるまいし、こっちはアヴァンギャルド映画なんだからとイキガッテひとりごちる。撮影助手「それじゃ小さすぎるから、そこにある週刊誌をつめこんでみろよ。」助監督「こんなもンでどうでしょう?」カメラマン「そんな上で息が出きるかよッ! ヘソからツキ上げるように作れよ。妊娠すると胃下垂が直るっていうぐらいだからな。胃のちょい下の感じだ。おマエそれじゃ心臓に子供がいるみたいじゃないか。ホントにオマエはもう、これで何本目だ。大体オマエは気を入れてやってない。ちょっと頭を使えばわかりそうなもんじゃないか。ただ女とヤッテればいいってモンじゃないぞ!」さすが二人の子持のパパ。腹ボテ作るのに二十代の男が汗を流して大変な騒ぎだ。助監督二十四歳、ウチに来てそろそろ一年。デカイズータイのワリに気が小さい。大きな肉体に小さな精神か? 蒸発経験有り目下同棲中。オレだって知ってるさ、月のモノが止まってお腹が大きく成ればニンシンしたって事位は。しかしその程度の知識で出産のシーンを演出するなんて全く自信がない。あたりまえの事だが一応演出家はそれが判ろうと判るまいと演出しなくてはならない。オレは子持ちのスタッフに助けを求める。監督という威厳を損なわないように。これが難しい。「産婆なしでも子供って出て来られるのかねえイケちゃん」池田「産婆なしでも一人で産めるらしいですよ、月日がたてば自然に子供は出て来るから用意しておいた刃物でヘソの緒を切れば良いんですよ。だからロッカーに捨てたり出来るんじゃないですか」とか「南方の未開地の女は、両手を木に縛りつけて産み落とすと云うじゃありませんか」雑談で時間が過ぎてゆく。スケジュールはまだ半分も消化していない。「撮影期間四日」プロデューサー兼監督としてはアセッてくるがやむを得ず「コーヒータイム!」の宣言。例によって雑談はワイ談にエスカレート(オレの気持ちも知らないで……)撮影再開。ヤケ気味になりながら出産シーンを自演して見る事にする。ああ


『制服の娼婦』(74年)

製作:大東映画、配給:大蔵映画
監督:渡辺護、脚本:荒井晴(荒井晴彦)、撮影:池田清二、照明:斉藤正明、記録:豊島睦子、音楽:林伊久太郎、編集:多毛村春二、助監督:萩原達
出演:宮圭子(モモ)、田中明(ヒデ)、木村則子(テン子)、小山洋子(フー子)、手塚みえ子(ワカ子)、青山美沙(スナックのママ)

渡辺護とピンク映画についてもっと詳しく


渡辺護について>


渡辺護のプロフィール
 http://watanabemamoru.com/?page_id=2


渡辺護フィルモグラフィー
 http://watanabemamoru.com/?page_id=7


渡辺護の発言・エッセイ>


『制服の娼婦』撮影日記(渡辺護 new!
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20130427/p1


エッセイ『日録1980年7月14日』(渡辺護 new!
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20130205/p3


エッセイ『日録1980年7月21日』(渡辺護
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20130205/p1


エッセイ『日録1980年7月28日』(渡辺護 new!
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20130205/p4


エッセイ『何が難しいことだって ピンク監督の弁』(渡辺護
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20130127/p1


同期のピンク桜−追悼 野上正義−(渡辺護
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20130129


渡辺護、2012年の日本映画をふりかえる
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20130101/p1


渡辺護の映画論「主観カット・客観カット」
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20081116
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20081120


渡辺護伊藤大輔を語る
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20081030


渡辺護の作品について>


渡辺護、『おんな地獄唄 尺八弁天』について語る
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20130202


井川耕一郎『極悪弁天』から『尺八弁天』へ(1)
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20130203


井川耕一郎『極悪弁天』から『尺八弁天』へ(2)
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20130204/p1


井川耕一郎『極悪弁天』から『尺八弁天』へ(3)
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20130205/p2


井川耕一郎『極悪弁天』から『尺八弁天』へ(4)
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20130206


参考資料:大和屋竺『おんな地獄唄 尺八弁天』シナリオと渡辺護による直し(シーン48〜シーン56)
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20130206/p2


渡辺護、監督第二作『紅壺』について語る
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20121228/p1


渡辺護『紅壺』について(井川耕一郎)
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20121227/p1


渡辺護、『修道女 秘め事』、『猟奇薔薇奴隷』などについて語る http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20130207


<ピンク映画について>


渡辺護、向井寛の初期作品について語る
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20121226/p1


向井寛『肉』について(井川耕一郎)
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20121225/p2


渡辺護自伝的ドキュメンタリープロジェクトについて>


『糸の切れた凧 渡辺護が語る渡辺護』について(井川耕一郎)
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20121215/p2


『つわものどもが遊びのあと 渡辺護が語るピンク映画史』について(井川耕一郎)
 http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20121215/p3

金子サトシ『食卓の肖像』を再見して(井川耕一郎)


(以下の感想は、2013年4月4日にツイッターhttps://twitter.com/wmd1931)に書いたものです)


金子サトシ『食卓の肖像』を再見。映画が始まって30分くらいたったところで、五島列島のとある集会所で行われた市民団体による自主検診が映る。検診の後はビールを飲みながらの会合。ひとりのおばちゃんが大きな声でみんなに向かって話しかけている。


「(カネミ油症の)未認定被害者の掘り起こしを誰かがやらにゃいかん。よし、うちの父ちゃんには長距離トラック乗らしときゃええんや。わたしがやる」としゃべりまくるおばちゃん(矢野トヨコさん)は底抜けに明るくて威勢がいい。まわりから笑いが起きている。


この検診シーンには「2000年8月」と字幕が出る。『食卓の肖像』の中で最も古い映像だろう。金子サトシはカネミ油症の問題と同じくらい、矢野トヨコさんの強烈な個性にも関心をもち、ドキュメンタリーの制作を決意したのではないか。


実際、矢野トヨコさんの人生は波乱万丈で、作品の題材としてとても魅力的なものだ。ところが、本格的な撮影に入る前に矢野トヨコさんは亡くなってしまう。金子サトシは真剣に撮りたいと思ったひとを失い、がっかりしたにちがいない。


しかし、撮りたいものが撮れなかったという悔しさを感じるところから、ドキュメンタリー制作は本当に始まるのではないだろうか。そう思って、『食卓の肖像』を見直してみると、まず印象に残るのは女性たちの姿だ。


カネミ油を使っていた頃を語る真柄ミドリさんは、しゃべりだしたら止まらないお人好しのおばちゃんだ。重本加奈代さん、渡部道子さんはシンポジウムや会議に出てカネミ油症の実態を正確に伝えようとしている。彼女たちは撮ることのできなかった矢野トヨコさんの分身なのだ。


一方、男たちはどうなのか。矢野トヨコさんは人前では「うちの父ちゃんには長距離トラック乗らしときゃええんや」と言っていたが、金子サトシの質問に答える矢野忠義さんを見ていると、奥さんのことを心から尊敬し、黙って支え続けてきたことがよく分かる。


矢野トヨコさんに比べると、矢野忠義さんはもの静かなひとなのだが、これは矢口哲雄さんにも、真柄ミドリさんの夫・繁夫さんにも言えることだ。特にしゃべり続けるミドリさんの横に黙って座っている真柄繁夫さんのたたずまいがいい。


『食卓の肖像』を再見して思ったのは、ああ、並んで座る真柄ミドリ・繁夫夫婦の姿は、矢野トヨコ・忠義夫婦の分身なのだな……ということだった。金子サトシは撮ることができなかったカットに何とか近づこうと試行錯誤している。そこが表現としてすぐれていると思った。


追記1:(井川)さっき書いた金子サトシ『食卓の肖像』の感想に事実とちがうところが一つありました。本格的な撮影に入る前に矢野トヨコさんは亡くなったわけではなさそうです。


金子サトシは「(2005年頃に)再会した頃にはトヨコさんの病状はかなり悪化されていて、入退院を繰り返していました。なので、トヨコさんを中心に追いかけるのは考え直し」と書いています。http://webneo.org/archives/8297


追記2:金子サトシ『食卓の肖像』については以前にも感想を書いています。参考までにどうぞ→ http://d.hatena.ne.jp/inazuma2006/20120204/p2