『西みがき』出演のかたがた(中村聡)

主な出演者三人は、8期高等科の、当の実習生たちである。
中村だけは6期の出身者で、三人には本作の打ち合わせの際に初めて出会った。
しかも悪いことに、本作の編集された段階のものを、まだ通しで観ていない(自分勝手な都合で)。
だから「出演者の紹介」といってもあまり言えることがないかもしれないが、何かカスるものがあるかもしれないので、書いてみます。


6期高等科では『うみめ』(万田邦敏監督)という実習作があり、「出演者の大部分が当の実習生、しかも一応実名出演」という試みのかたちに限れば、『西みがき』と似た状況であった。
『うみめ』には中村も出演させていただいているのだが、中村含めた(飽くまで当時の)6期生のなかでは、今回の『西みがき』の出演者三人ほど「堂々と」した演技者はいなかったように思われる。
三人の演技には、なにかしら覚悟を決めたような、単に割り切っているのとも違う、力強いものを感じるのだ。
その要因は一筋ではないだろうし、あるいはちょっとしたキッカケの違いなのかもしれない。作品性の違いもあるだろうし、もしかしたら(演技の学校ではないが)なにかカリキュラムの違いでもあったのかもしれない。
出演者たちの特徴だけを考えたところで不毛なのかもしれないが、敢えてこの線で続けてみる。


「ひと括り」するように書く。
今回の『西みがき』出演者たちは「話相手とは、あまり目を合わせない」ひとたちと見受けられた。特に異様なこととも思わなかったが、興味深いと思ったのも確かだ。
当然「中村が何かをしてしまったのか」「人見知りか」とも考えてはみたが、見ていると、どうもそう単純には言えないようだ。
「対面恐怖症」という言葉も聞いたことはあるが、中村はこれについて良く知らないし、なんとなく当てはまらない気がする。


「ほうっといてください」と怒られそうな気もするし、ひょっとすると相当な「棚上げ」な部分が出てくるかもしれないが、続けてみる。


こうした身振りの印象は、そのままでは「堂々と」した演技というものに結びつけにくい。
断っておくが「マナー違反の輩」という感じでもないし、別に失礼なことをされた感覚はない。
むしろ、会話時に「視線を合わせること」が「言外の要素」としてどれだけのモノなのかと考えさせられた一ヶ月半であった。


アメリカ人などの会話をみると、「視線を合わせること」の徹底度が(意識的/無意志的の問題はさておき)高いという気がするし、そのことは少なくともその会話のリズムやトーンに関わっているのだろうし、自然、それが映画の撮り方とも無関係ではないだろう、と思う。


我々だって、会話を単なる(テクスト的情報としての)言葉のやりとりだとは思っていないが、例えば啓蒙塾なんかに行って「戦略的」会話術の一環としてでも教わらない限り(あまり想像もつかないが)、改めてその徹底度を高めよう、とは別段思わないのではないか。


日常において「目を見て話せ」と急に言われたら、ちょっと空気が変わってしまうだろう。多くの場合、これは宣戦布告(ごっこ)のような言葉だ。
「さあ、目を見て答えなさいっ」というのも、言われた時点でなんだか権力関係が決定されているようで、その後は消化試合というか、ズルいというか、胡散臭い気もするわけで。
無理して実行しても、それはそれで会話じたいがけっこうウソ臭くなる気もする。
かのフィクションで、おそらくワシントンは自ら相手の目を見据えたうえで、自発的に「サクラオリマシタ」とか告白したのであろうが。


それじたいが政治的やりとりの「戦術」として組織され易い身振りであり、また普段の身振りであるからには、今更ひとや自らに強要して簡単にうまくいくというものでもない。少なくとも中村は、出演者三人に対してそのような立場ではありえない。


「言外の要素」を要請せず、とりわけ性急な「世間」的会話の「ノリ」など導入しない彼らに際して、はじめから中村は「あまりエエ加減なことは言えないかな」とわりに良い意味で緊張したのだと思っている。まあ結局、エエ加減なことを言っていたかもしれないが(なんやねん)。


とまれ会話時に「視線を合わせること」は、何かしらの効果をもたらすのだろうが、いつでも「相互理解」(←胡散臭い)を助けるなどとは安易に言えないし、場合によっては、むしろ何かを妨げることすらあるかもしれないのだ、と再確認させられたわけである。この辺りは曖昧に締めさせていただくが、まあ「目を見ないで話すこと」が一概に悪いことではありえない、と思うわけだ。


ところで、井川監督が何度か(たぶん慣れない中村のためもあって)出演者のひとり=本間さんに「周囲のエピソード」を語らせたことがある。その奔流のような「語り」は(もちろん会話ではない)、質/量ともに圧倒的で、つねに意外な展開をもち、とてもテクスト的情報量として計測できないようなスペクタクルである。
しかもこれら超・面白い「語り」に複数回出てくる登場人物について、安易に一つの像(イメージ)を結ばせることがない。「このひとの世界観を映画で観てみたい」などと不遜にも思ったし、ひとりの人間の豊穣さが自身による「語り」においてここまで顕される例にも、あまりお目にかかったことがない。


かように圧巻の「語り」を展開する際には、その目の様相は少し変わってくる(彼女による、この「語り」の状況に似たようなシーンは、完成品でも残っていると思う)。
やはり乱暴に括るようだが、大なり小なり、彼ら三人の「語り」には、かような「過剰」とも言える変化があった。
井川監督は、そうした彼らの様子を、いかにも愉しげに(暖かい目で?)ニヤニヤと見ているようであったのだが、こうした変化こそが、彼ら三人の「堂々と」した感じに繋がっているのだと考える。


普段あまり相手の目を見ない彼らのなかには、いざとなれば様々なコンテクストに対して飛び出そうと準備する思念や記憶の蠢きが、より溢れんばかりに、「狂おしい」かたちで保持されているのかもしれない。
だとすれば、彼らにとって映画とは、演技することとは、そんな蠢きの数少ない「許された」出口なのではないかと思う。
細くしぼられたホースから迸るかのような集中度で、「語る」「動く」。ときには「会話する」「相手の目を見据える」こともある。中村などからすれば、一時は「頑固さ」と取り違えそうになったほど、彼らにはブレが少ない。
だからといって単なる自己陶酔的なカタルシスにも、ただ快楽的にも見えないのは、「自らの場所」を見つけた者の、やはり「狂おしい覚悟」がそこに満ちているからではなかろうか。
今少しだけ、ホースで水撒きしている、嬉々とした井川監督の図が浮かんでしまった「ワハハ!うわ、強過ぎた!すごいなワハハハ!!」。


ところで『西みがき』では「視線を合わせた会話」というものは少ないほうかもしれない。だがそれだけに、そのダイナミズムへの期待が高まるのだ(想像)。ついでに一寸だけ出てくる中村の視線は、とても落ち着かないものだったように思う。


蛇足。カットされて完成品では存在しないようだが、ラストカットの予定で撮られたところで唯一度、夫・中村は幸子(=本間さん)とマトモに目を合わせて話したのだと思う。しかし、それを受けて「わかり合えた」という締めでは決してなかったのであった。ラスト含めて大分変わったようなので、飽くまでネタばらしではありません。