神代辰巳論5・6(井川耕一郎)



 神代の後期の映画では、気がつくと日常生活の中に幽霊が存在している。そうした幽霊の中で、とりわけ興味深いのは子どもの幽霊だろう。
 『恋文』(85)の冒頭で、萩原健一は家の窓にマニキュアで絵を描いている。やがて倍賞美津子が家に戻り、ショーケンの絵に半ば呆れ、洗面所のドアを開ける。すると、そこに裸で歯を磨く息子がいるのだ。私に分からないのは、この息子が母が戻ってくるまでの間、家の中で父とどう過ごしていたかである。とてもこの父子の間に親子の対話があったとは思えない。私には、どうしてもこの息子が座敷童子のように、萩原・倍賞夫婦の家に住みついているとしか見えないのだ。
 だが、こうした息子の幽霊ぶりは錯覚ではないだろう。例えば、家を飛び出したショーケンが息子と久しぶりに海で再会するシーン。ハーモニカを吹く父の膝にまたがって、息子は父をじっと見つめる。ショーケンはしばらくハーモニカを吹き続けるが、やがて目をふせ、困ったような笑みを浮かべる。このシーンが怖いのは、息子が父の行為を非難するような目をしているためではない。彼の目には、何の感情もない。あれは人間の目ではなく、鏡のようにうつろな目だ。ショーケンはその相手の目に映る自分の姿にぞッとして、目を伏せるほかなかったのである。
 さらに、この鏡のような目は映画の後半にも出てくる。倍賞美津子萩原健一に病院の会議室で離婚届を渡すシーン。このシーンは映画のクライマックスにあたる部分なのだが、ここで息子はドアを開け、中をのぞく。私が奇妙に思うのは、萩原・倍賞夫婦の姿を見ているかのように息子のカットがつながっていることだ。部屋の中での役者の位置から言うと、息子には両親の姿を見ることはできない。にもかかわらず、神代は息子が鏡のような目で二人を凝視しているかのように演出している。『恋文』というメロドラマが、硬質の叙情を感じさせるのは、まさにこのような瞬間があるからだと思う。
 もう一つ、幽霊としての子どもが現れる映画に『噛む女』(88)がある。映画の前半、永島敏行と桃井かおりの夫婦は娘を連れて、デパートに家具を見に行く。そこで永島は娘と下に引き出しのついたベッドで遊ぶのだが、このとき、引き出しの中に入った娘が唐突に「春夏秋冬」の歌詞を呟くのだ。今日ですべてが終わるのさ、今日ですべてが変わる……、と。この瞬間、永島敏行の体はふいにこわばり、恐怖を感じる。まるで娘が棺桶の中で息を吹き返した死者のように見えたのだ。そのうえ、この死者は予言めいた言葉まで口にしたのである。
 だが、『噛む女』の恐怖はこれだけでは終わらない。デパートからの帰り道、桃井かおりの運転する車は、血まみれで助けを求める女と、その後をゆっくりと追うナイフをもった男に出くわす。一体、この二人がどういう関係にあるのかは、誰にも分からない。けれども、このとき、娘が泣いたのは、この二人がお化けに見えたからというだけではない。怖さからいけば、お化けが正面からやって来るというのに、無言でゆるゆる車を接近させる母親の方がずっと怖いに決まっているのだ。さらにもう一人、娘にとっては、父も理解できない怖い存在だったに違いない。なぜなら、彼は、もう大丈夫だよ、と言いながらも、遠ざかっていくお化けをしっかり目撃させるような形で、娘を抱きしめているのだから。
 何を考えているのか分かったものではない男女から、このわたしが生まれてしまったのだという恐怖。『噛む女』が恐怖映画としてすぐれていたのは、そういう娘の側から見た恐怖を描いていたからだと私は思う。映画の中で、永島敏行はよその女と寝るうち、我が身に一体何が起きたのかと問いだすが、その疑問は、どこかで娘の感じた恐怖とつながっているはずだ。それは夫婦間の愛情が冷めたのは何故かなどというレベルの問題ではない。問題は、愛しあい、結婚し、子どもができるという普通の生活に何ら確かな根拠がないということの発見なのだ。
 それにしても、残念に思うのは、神代が幽霊としての子どもの登場する映画をこの二本以後、撮らなかったということである。そもそも神代の子どもの描き方には特異なところがあった。私が最初に見た神代作品は、74年のTV作品『傷だらけの天使』の「草原に黒い十字架を……」の回だったが、そこでも子どもが重要な役を演じている。忘れられないのは、ラスト近くで、ショーケンが一緒に逃避行を続けていた少女の死体を目撃するシーンだ。山を切り崩した斜面に吊されたその少女の死体は画面のすみに小さく映るだけなのだが、中学生の私には衝撃だった。あの無造作にごろんと死体が映っている映像は、それ以前に見た『怪奇大作戦』、第一期の『ルパン三世』、エルンストの『百頭女』などとともに、見ることの罪を私に意識させたものであった。『恋文』や『噛む女』の子どもたちの持つ怖さは、この少女の死体とどこか通じるものがあるのではないだろうか。



 私にとって、神代はまず何と言ってもポルノグラフィーの作家であった。もう少し正確に言うと、快楽のポルノ作家であったということになる。私が思うに、ポルノには三つのタイプがあるのだ。欲望のポルノと、妄執のポルノと、快楽のポルノと。世の中の大半のポルノは欲望のポルノでしかない。欲望のポルノとは、欲望を満たすために、計画を練り、それを実行すれば、必ず満足が得られるというような代物だ。例えば、女を計画通りに調教し、マゾヒストにするというようなSMモノは欲望のポルノである。一方、妄執のポルノでは、欲望の目標が高すぎるのか、不可能なのか、とにかく満足を得るための方法がない。くりかえしセックスはするが、欲望はどうにも満たされることがないのだ。例えば、いどあきおが脚本を書いた『団鬼六 花嫁人形』や、渡辺護の『少女を縛る』などがこれにあたる。
 快楽のポルノは欲望や妄執を放棄するところから始まる。大体、快楽を手に入れる手っ取り早い方法は、何もしないでだらけていることだろう。怠惰であることこそ、快楽のすべてなのだ。神代の映画は、まさにそのような快楽を追求したポルノであったと思う。それは一見、妄執のポルノに見える『赫い髪の女』にも言える。この映画の石橋蓮司宮下順子の前の男が気になって仕方がない。そしてついに彼は宮下順子にとって一番最初の男になりたいという妄執にとらわれ、阿藤海に彼女を抱かせる。だが、その妄執が空しいことを、石橋は飲み屋の女である山口美也子と寝ることで知る。このとき、山口美也子宮下順子と同じように石橋の肩の上に足をのせ、腰を動かす。すると、石橋は絶頂に達して果ててしまうのだ。宮下順子が前の男にその体位を「仕込まれた」ように、石橋も彼女に 「仕込まれ」てしまったのである。しかも、寝たあと、山口美也子は、男なんてみんな同じだ、とまで言い放つのだ。
 『赫い髪の女』が快楽のポルノになるのはここからである。翌朝、石橋は浴衣の紐の端をまるで首吊りでもするように自分の首に巻き、もう一方を宮下順子の足首に巻く。石橋は敗北を認め、妄執を放棄した。あとはただ快楽に身をゆだねるだけだ。たぶん、この二人は日常生活に戻ることはできない。彼らは延々とセックスをくりかえすほかないのだ。いつか消しゴムで消されるみたいに、自分の体がなくなってしまうまで。
 今、私の頭の中では、ラブホテルでバイトしていた頃みたいに、だらだらと続くセックスのイメージが始まっている。すると、どこからかぼそぼそ歌う声が聞こえてくるのだ。消してくれよ、消してくれよ、おれのことを。消してやるよ、消してやるよ、きみのことを。ほら、気がつくと、布団のうえ、もうきみはどこにもいない。もうおれもどこにもいない。


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